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笑うまでの話(仮)


1.

「悪いなフォリー、無理言っちまって」

「いえ、いいんです社長。
うちの病院にはあまり人は来ないので、時間は沢山あります」
フォリーと呼ばれた蒼い長髪の青年は、自分の足元で下を向いて動かない少年に目をやりつつ、そう言った。


ききぃっ・・・
玄関の戸が開く音に反応して、
家具のカタログと真剣な目で向き合っていた男――渚紗は椅子をゆっくりと回す。
「おかえ・・・ん?その子は?」
「社長に頼まれてしばらく預かることになった。森の奥深くで血まみれで倒れていたらしい」

少年の体が僅かに震えたが、それは二人には気付けないほどの小さな震えだった。

「血まみれって・・・・ひどい怪我って事!?」

「いや、この子自体は軽傷だ。応急処置もしてある。血は近くに倒れていた動物の死骸のだ」

「なぁんだ、ビックリさせるなあもう」

カタログを投げ捨てるように机に置き、引き出しに手を突っ込もうとしていた渚紗は、
ふぅっと息をついて椅子に座り直した。


「ところで二階の部屋は空いているな?」

「患者用の病室のこと? 空いてるけど・・・」

「分かった。さあ」

「ちょちょっと!待って!!」

びくんと震える少年の背中を押して二回へ上がろうとするフォリーを渚紗は慌てて引き止める。

「何だ」

「「何だ」って・・・その子を患者用のベッドで寝泊りさせる気?」

「そうだが」

ここの病室はとにかく無個性だ。
学校の保健室をもっと小さくしたような部屋の中には真っ白なベッドとカーテンだけ、
TVやゲームなどといった娯楽物はもちろん皆無で、
部屋の隅の隅まで見ても暇を潰せるような要素はひと欠片も見当たらない、いわば「究極に退屈な部屋」なのだ。

そんな所で、しかもまだあんなに小さい子供を寝かせようとするなんて・・・・・っ!!

「ねえ、僕の部屋を使わせてあげない?」

「お前の?そんな事をしなくても、既に開いている部屋があるならそっちを使うべきだろう。
第一そんな事をしたらお前の寝る場所が」
「大丈夫僕はこの椅子で十分に睡眠取れるし!!それにその方がその子もゆっくり休めると思うよ!ねっ!!」

渚紗は再び椅子から立ち上がり、事務机も飛び越えんばかりの勢いでフォリーの説得にかかる。
フォリーは「それなりに眠れる布団かベッドがあればもう充分」という考えらしい。
けっして意地悪でやっているわけではないのだが、その質素さを素直に受け入れられる人間は
そう多くない。

「・・・・まあお前がそこまで言うなら」
フォリーは階段を上りかけていた足を戻し、渚紗の部屋へ向かった。

渚紗の部屋は、全体的に落ち着いた暗めの色で統一されていて、
所々にアジアンテイストな掛布や置物が置いてある。
ほんのりただよう線香の匂いが、知らず知らずのうちに心を落ち着かせる。

「今日から、ここで寝てもらうことになる」
「・・・・・」
少年は、おずおずと部屋を見渡しながら、遠慮がちにベッドに腰掛け、
布団の感触を手のひらで確かめるように触っている。

「そういえばさ・・・」

「何だ」

「僕、まだこの子の名前を知らないんだけど」

「確かにな・・・社長も聞いてみたが教えてくれなかったそうだ  君、名前は何と言うんだ」

「ぇ・・・っ?   あ・・・ぇ・・・っ」

少年は、突然ふられた質問に驚いたのか、悲鳴とも呻きともつかないような声をあげた。
そして、何かを言おうとしてから、泳いでいた目を沈め、
思い出したような諦めたような表情になって、言った。

「・・・ない・・・・です」

「「?」」

「ど・・・どれいに名前は・・・・・ありません・・・」

「奴隷?  何を言って」
「ひっ!!」

少年は小さく鋭い悲鳴をあげながら、
自分に触れようとした手から体全体を逸らすようにベッドに身を投げだし、布団の奥深くに潜ってしまった。


「・・・何かあったみたいだね」
「そうだな・・・ だが、この様子では聞くに聞けない」
フォリーは、退けられた右手をゆっくりと下げた。


「ご飯の時間になったら呼ぶから、食べられそうだったら来てね。
 あ、お腹空いたら、時間じゃなくてもいつでも言ってね!」
「・・・言っておくが、君は奴隷としてここに来たわけではない。だから怖がらなくてもいい」

そう言って二人は部屋から退散した。

フォリーは、自分の右手をじっと見つめていた。

「・・・・渚紗」

「ん?」

「私は奴隷商人か何かに見えるか」

「あ・・・・結構ショックだったんだ」

「どうなんだ」

「うーん・・・奴隷商人とまではいかないけど、
 あんまし表情変えないからちょっと怖いっていうのはあるかもね」

「そうか・・・・・・・」

少年は震えていた。
夕闇に包まれた部屋の中で、幾何学模様の布切れにしがみついて、震えていた。

「おい、お前の名を言ってみろ」

「ぼ・・・僕の名前・・・・は・・・れ」
ぼぐり。 という音が脳に響く。
肌を切り裂き、骨を揺らす音。
そこから滲み出るへんな気持ち悪さと、流れる血の温かさが、
心の奥にある一際冷たい恐怖心を刺激する。

「―――あぁ? 違うだろ?」
ごぎっ。
その冷たさから少しでも逃れるために、必死で顔を覆う。
しかしその細い腕は、迫り来る強く大きい悪意に耐えようとするには、あまりに弱かった。

「「奴隷に名前は―――」
めぎっ。
痛い。怖い。
なんで、こんなことをされるんだろう。
僕が間違っているのかな?

「――ありません」、だろ?」
ぐちゃっ。

・・・ああ、そうか、きっと僕が間違っているから、こんなことをされているんだ。
もっといい子にならなくちゃ。
おじさんたちの言うことをよく聞いて、ぶたれないようにしなくちゃ。

僕は奴隷なんだから。
誰にも逆らっちゃいけないんだ。

「君は奴隷としてここに来たわけではない。」
あの蒼い髪の人は、そう言っていた。言っていたけど。

何年も何年も「躾けられて」きた体が、その言葉を受け入れなかった。


少年は彼らが死んだのをはっきりと見た。
彼らは少年の目の前で、謎の怪物に食い殺された。

それでも、心の深くまで刻み込まれた傷は消えない。

今にもドアを蹴破り、彼らが押し入ってきて、自分を壊しに来るかもしれない。
そんな幻が、いつまでも少年の心にこびり付いていた。


こつこつ。
「っ・・・・・!!」
唐突に響くノック音に、思わず小さな悲鳴をあげる。

脳裏に鮮やかに浮かぶ痛みや苦しみ、そして何よりも恐怖。

「夕御飯できたよー」

「・・・・・・・」

こつこつ。

震えが一段と大きくなる。
次の瞬間にもそのドアがばぁっと開かれ、
自分を切り刻み傷をえぐろうとする何かがにじり寄ってくる気がしてならなかった。

「・・・・・・・」

しかし、
ドアの向こうの気配は去っていった。

震えが少しずつ、収まっていくのを感じる。

「怖がらなくてもいい」
蒼い髪の人はそう言っていた。

「あの子はどうした?」

廊下に目をやりつつ聞くフォリーに、
渚紗はよっこいせと椅子に腰を落としながら答える。

「ノックはしてみたんだけどね・・・  寝ちゃってるのかも」

フォリーは、廊下から視線を離さないまま、「・・・そうか」と呟いた。

全く知らない人から見れば、フォリーの表情は少しも変わっていないように見える。
しかし、渚紗の目には、見つめる先のドアから少年が出てくるのを
今か今かと待ちわびている、親のような彼の姿が映っていた。


月も傾きはじめ、
一層暗さを増そうとする夜の中、少年はむくりと起き上がる。
しかし今まで寝ていたのかというとそうではなく、
寝よう寝ようと横になりつつも、
心にかかる黒いモヤが睡魔を撥ね退け、なかなか意識が沈んでいかない。

そしてついには、
抑え込まれていた空腹感が「もう限界だ」とばかりに騒ぎ出し、
それによって完全に目が覚めてしまったらしい。

「・・・・・・お腹すいたな・・・」

思わずそんなつぶやきが漏れる。
そのつぶやきに同感とでも言うように、
腹の虫がきゅるきゅると呻く。


空腹に耐えかね、
少年はそろりと床に足を降ろし、
音を出さないよう慎重に慎重にドアを開く。

もしかしたら見つかってしまうかもしれない。
ひどく叱られ、叩かれてしまうかもしれない。
でも、
飢えて死ぬよりはマシだ。

――そういえば、前にも似たような事をした。

夕ご飯がもらえない時、
夜中にこっそり寝床を抜け出し、
キッチンの果物やお肉が置いてある所へ
向かう。

そこで果物の欠片や、夕飯のお肉の食べかす、
野菜の切れ端なんかをかき集めて、ほおばる。

そうやってなんとかお腹を落ち着けてから横になると、
いつもよりもよく眠れる。


でも、

たまに遅くまで起きている大人たちがいたりして、
キッチンに行く途中や、床を這って食べ物を集めているところを見つかってしまうと、
首を掴まれて、
真っ暗な表に投げ出されて・・・・・・・・


――「・・・腹が減ったのか?」
「っ・・・・・  !!・・・・」

突然の背後からの声に、
少年は悲鳴すらあげられずに固まってしまう。

脳裏によぎるのは、
真っ暗闇の中、
自分の頬を、腕を、脚を狙って振り下ろされる凶器の、
風を切る音や肉の潰れる感覚、
痛みと恐怖・・・・・

苦痛の記憶に顔を歪め、
目にはじわりと涙を浮かべてしまっている少年を見て、
フォリーは何も言わずに台所へと向かい、
冷蔵庫から冷えた肉と白飯の盛られた皿を取り出し、
レンジに突っ込んでダイヤルを捻った。

それから、未だに固まったままの少年に、
テーブル近くの椅子に座るよう促した。

少年は、下手に動かせば壊れてしまうとでもいうような
ぎごちない手つきで椅子を動かし、
フォリーから目を逸らせないまま席に着いた。

「いいか、昼にも言ったが、君はもう奴隷ではない。
私達は君を奴隷として扱うつもりも全くないし、
腹が減ったなら素直に言ってくれて一向に構わないんだ。」
フォリーは少し呆れ気味な表情(フォリー自身はそのつもり)になりつつ言った。

「ぅ・・・・・ごめんなさぃ・・・」

「・・・君が謝る必要はない」

「ぅ・・・あ・・・・・・はぃ・・・」


レンジから、「温め完了」の電子音が鳴る。

フォリーは皿を出してラップを外し、
スプーンとフォークを添えて少年の前に置いた。

「腹が減っているんだろ?食べるといい」

少年は緊張気味にスプーンを手に取り、
いかにも慣れていないような拙い手つきでご飯を掬う。
そしてそれを恐る恐る口に運び、

ゆっくりと噛み味わい、
そして飲み込む。


それからもう一口、二口と、少しずつスプーンを動かす手が早まっていく。


それを見届けたフォリーは、
とりあえずほっとした様子で部屋に戻ろうとする。

それを見た少年は、口に運ぶ手を少し止め、また少し悩んでから、口を開いた。

「あ、あの・・・・名前・・・・」

「ん?」

「・・れい・・・あやべれい・・・・・です」

「・・・・・・!」

フォリーは布団へ向かう足を止め、その場で静かに振り向いた。
その顔には、僅かな驚きと、それよりも微かに喜びの感情が浮かんでいた。

「・・・綾部 麗か。  私はフォリーだ。 ・・・よろしく、綾部」

「・・・フォリー・・・・」

「食べ終わったらちゃんとベッドに戻るんだぞ、綾部」

「あ、・・・ぉやすみ、な、さぃ」

「   ああ、おやすみ」

「ねえフォリー、テーブルに空になった皿が置いてあったんだけど・・・」

日の出とともに目が覚めた渚紗は、朝食の用意をしつつフォリーに尋ねた。

「ああ、それか。実は夜中にあの子が起きてきたんだ」

それを聞いた渚紗は一瞬驚いた顔になり、そしてくすりと笑った。

「食べてくれたんだ! 良かったぁ、お腹空いてるんじゃないかって心配してたんだ」

そして少し興奮した様子で言った。

「ねね、朝ごはん食べに来るかなあ?」

フォリーはちらりと廊下を見てから答えた。

「夜中まで起きていたからな・・・どうだろうな」

しかしそう言い終わってからまもなく、廊下に並ぶドアの一つが、
軋んだ音を立てながら遠慮がちに開いた。

「・・・・ぉ、おはようござい、ます」

「・・・ああ、おはよう」

「おはよっ! うーっと・・・・」

「あ・・・あやべ、れい、です」

「綾部君かぁ! 僕は渚紗 ミヅキって言うんだ、よろしくね!」

「よ、よろし、く・・・ ?」

そう言いながら、少年――綾部は、ぎごちないながらも笑っていた。
拙く、まだ弱々しいが、綾部の見せたそれは、
疑いようのない笑顔だった。

そして何気なくフォリーの方へ視線を向けた渚紗は、ふと気がついた。

「フォリーが笑ってるなんて・・・珍しい」

そのつぶやきを聞いたフォリーは、
ちらりと渚紗の目を見た。
「いや、それは――」

そしてすぐに逸らして言った。
「気のせいだ」


2.


「綾部、昼食だ」
フォリーはドアを軽くノックする。

やや時間をおいて、内側からゆっくりとドアが開かれる。
少しばかりふらついていたが、フォリーの顔を見ると、
「心配しないで」とでも言うように、
遠慮がちに笑みを浮かべた。

フォリーの後ろに続き、リビングに入ってきた綾部を見て、
渚紗はニッコリと笑った。
「さっ、席に着いて!」

二人が席に着いたのを見届けてから、渚紗は手のひらを合わせる。
フォリーもそれに続き、綾部も二人を交互に見ながら真似る。

「いただきますっ」
「いただきます」
「い、いただき、ますっ」


「・・・綾部、何かついているぞ」
綾部の頬にくっついている米粒を見たフォリーは、それを取ってやろうと
手をのばす。
それを見た綾部は一瞬びくりと震えたが、
フォリーの目をちらりと見てから、
目を閉じる寸前まで細め、じっと動くのを我慢していた。

「・・・・取れたぞ」

その声を聞いた綾部は、申し訳なさげにふるふると目を開く。

「あ、 ありがとぅ・・・・・」

「ご、ごちそうさま、でした」

「あっ、お皿は洗わなくても大丈夫だからね!」

昼食を食べ終えて、
自分の皿を台所へ運んでいる綾部に向かって、
渚紗は言った。

「えっあっ・・・、 はい・・・」

自分の行動を見透かされた綾部は、
渚紗の笑顔にちらちらと目をやりながら、遠慮がちにシンクに皿を置いた。
そして、二人の様子を伺ったままの状態で、部屋に戻っていった。


フォリーが少年を引き取ってから、二日が経った。

綾部は、最初に会った時よりは
コミュニケーションをとってくれるようになった。
まだぎごちなさは残っているが、笑顔も少しずつ増えてきた。

しかし、まだフォリー達と綾部の間には、壁がある。

フォリーにはうっすらと、しかし確かな形をもって、
その壁が見えるような気がした。

「綾部は食事を済ませると直ぐに部屋に戻ってしまうな」
不安を紛らわすように、そんな言葉が出る。

その不安を知ってか知らずか、渚紗はふっと笑って、
フォリーの目をじっと見る。

「うん、最近ぬいぐるみが気に入ってるみたいだよ」

「・・・・・・ぬいぐるみ?」

予想だにしなかった返事を受けたフォリーは、
思わず口が開いてしまった。

「そう、大きなぬいぐるみ。 ほら、窓際に座ってる・・・」

「一メートル弱の熊のことか」

「それそれ!」

フォリーは納得したような、思い出したような顔で、
「あぁ・・・」と口を動かす。

「部屋の前を通る時とかちょっと覗いてみるんだけど、
だいたいいつもあれで遊んでるんだよ。
ドアの隙間からだから、あまりよく見えないんだけどね」


綾部は、ベッドの上に座らせたぬいぐるみの
手を遠慮気味に握ってみたり、腕を引っ張ったりしていたが、
やがて疲れが出てきたらしく、
ぬいぐるみの体に抱きついて横になり、
ゆっくりと目を閉じた。


――少年はぼんやりとした人影に抱かれ
―何故かはわからないが、
       少年にはそれが自分の父親であるという確信があった―
その暖かさを感じながら、
無邪気に微笑んでいた。
人影は少年の機嫌をとるように、抱えている腕を小さく揺らしている。

少年はいつまでもこうしていたいと思った。
そしてこの人をもっと感じたくて、
人影の肩に手を伸ばす。

しかし、その手は届かなかった。
それどころか、触れようとすればするほど、人影は更に遠のいてしまう。

やがて自分を抱き支えていた腕も解け、

ぐちゃぐちゃとした空の中に投げ出された少年の体は、
上下の区別もつかないまま、
空の奥の暗闇へと、落ちるように引き寄せられていく。

暗闇の中に見えるのは、

嫌悪や侮蔑を剥き出しにした視線、
悪意を骨まで刻み込もうとにじり寄る刃、
そして少年を連れ戻そうと伸ばされる手、手、手・・・・


いやだっ!

誰かっ!!

「  っぅ・・・・・・・・・・・・・・・はぁっ・・・・・・・」

夢の中での叫びとともに目が覚める。
シーツには大きなシミがつくられ、頬を伝いその源流がぽたぽたと垂れていた。


紺色のカーテンを開けて空を見てみると、
沈みかけている陽のオレンジと宵の群青のグラデーションが広がっている。

ぬいぐるみはいつの間にかベッドから落ちて、
すぐ下の床に仰向けで転がっていた。

「・・・・・・・・・・お父さん・・・」

ぬいぐるみを窓の側に戻しながら、
綾部は誰に言うともなく呟いた。

そして、
涙が完全に止まるのを待ってから、
ドアへと歩いて行き、ノブに手をかけた。

「あっ! お腹空いたの? ごめんね、もうすぐ夕御飯作り始めるから、
もうちょっとだけ・・・」

「あっいや・・・お腹は大丈夫・・・」

キッチンに向かおうとする渚紗を綾部は慌てて引き止める。

「どうした、暇になったのか」

事務机に座って本を読んでいたフォリーは、
綾部をちらりと見て言った。

「えっ・・・・ ぅ・・・その・・・」

「ああ、そういうことなら座りなよ!
よくお話してみたかったんだ」

渚紗の笑みに圧されながらも、
しかし僅かにほっとしたような表情になって、綾部は椅子に座った。

「・・・ここには慣れてきたか?」

そう言ってフォリーは読んでいた本を閉じ、
綾部の近くの椅子に移動した。

「う、うん・・・たぶん、なれてきた?と思う・・・かも」

「そうか」

フォリーは閉じた本の表紙から視線を動かさずに、
静かに言った。

「本当に? 嬉しいなあ」

渚紗は両手を合わせ、顔に穏やかな笑顔を浮かべた。

「ここは君の家でもあるからね。
何か嫌な物事があったら、遠慮なく言っていいんだよ!」

「え、あ、 ・・・うん」

渚紗につられて、
綾部も無意識のうちに顔をほころばせてしまう。

フォリーは、そんな綾部の様子を、
傍らからじっと見守っていた。

「いただきまーす」
「い、ただきます」
「いただきます」

そう言ったあと、フォリーは自分の目の前の餃子に箸をかけたところで
動きを止め、綾部がそれを口にするのを待ってから言った。


「どうだ?」

「んっ・・・・おいしい・・・」

「 そうか・・・」

ため息のようにふぅっと息をつき、再び箸を動かしはじめたフォリーを
ちらりと見てから、渚紗は綾部に耳打つ。

「今日の晩御飯はね、フォリーが作ったんだよー」

それを聞いた綾部は、
ちょっとだけ驚いた表情で目の前の皿を見た、
それからフォリーを見て、ほのかに目を輝かせる。

「料理上手なんだ・・・」

フォリーは渚紗と綾部から視線を逸らし、箸を動かす手を早めた。

「渚紗、余計な事は言わなくていい」

「・・・おいしいよ、フォリー」

「「おいしい」ってさー、 よかったねフォリー?」

「・・・・・・」

「そうだ、綾部君も作り方教えてもらったら?
 将来お嫁さんにごちそうしてあげたらきっと喜ぶよ」

それを聞いたフォリーは、一瞬だけ手を止めた。

「この子にはまだ早い話だ」

そしてまたすぐに手を動かし始めた。


「・・・くっ・・あぁ・・・・」

夕食を食べ終わり時計の針が十二に重なる頃に、
ようやく眠気が綾部を襲う。

「綾部、もう寝るか」

欠伸を眺めていたフォリーにそう言われた綾部は、素直にそれに従うことにし、
リビングを後にした。

「うん・・・・ おやすみなさい」


そう言って歩き始めたところで、ふと、昼間のまぼろしがよぎる。

行く先の廊下の暗がりをじっと見つめる。
そこには自分の恐れるものはいない。
そこはあの悪夢のなかに見た闇とは違う。
ただ薄暗いだけだ。

そう自分に言い聞かせ、木の床をしっかりと踏みしめながら、
静かな廊下を歩いていく。


しかし、進めば進むほど暗みは増し、忘れようとすればするほど
悪夢に見た景色は鮮明に蘇ってくる。

手をかけた扉は自分の部屋への入口のはずだ。
しかしそれを開いた先には、
あの悪意に輝く目や、
鋭い刃、
そして無数の手が、
待ち構えている気がしてならなかった。

「・・・・っ・・・・・・・」

少年は、そこから先に進むことができなかった。


「・・・? どうした、綾部」

パイプ椅子に腰かけ本を読んでいたフォリーは、
リビングと廊下の合間に立ってうつむいている綾部に気づき、声をかける。

「ぁえっと・・・・ あの・・・・・・」

綾部は斜め下を向いたまま、フォリーの方へとすこしずつ歩み寄っていった。
そして椅子のすぐ側まで来ると、何かを言おうとして口を小さく開き、
目を泳がせて懸命に今の気持ちを表す言葉を探していたが、
記憶のどこを見渡してもはそれはなかったらしく、
やがてフォリーの白衣の袖をきゅっと掴んで黙り込んでしまった。

「怖いのか?」

布越しに綾部が微かに震えているのを感じたフォリーは、
その震えをなだめるように綾部の肩にそっと手をのせて、
静かな声で言った。

綾部は、返事をする代わりに、目を閉じて
掴んでいた袖をほんの少しだけ引っ張る。

「・・・・わかった」

フォリーは深く息を吐きつつそう言うと、
本を机の上に置いて立ち上がった。

「さあ、ついておいで」


ドアを開けた先は、いつも通りの部屋だった。
線香の残り香がただよい、アラベスク柄の布が壁にかかっている、
渚紗が貸し与えた部屋。
綾部の恐れていたものは、どこにも見当たらなかった。

「入るんだ、綾部」

綾部はフォリーに促されるまま、ベッドに横になり、上から布団をかぶせられる。
最後に綾部の頭をぽんぽんと優しく叩いて、フォリーは部屋から去ろうとした。

しかし綾部は、袖を握る手を離さなかった。

「・・・・綾部」

「あ・・・・その、暗いから・・・・」

綾部はフォリーの袖と顔を交互に見ながら、

必死に気持ちを言葉で表そうとしていた。

「だから・・・フォリー・・・・・行かないで」

そう言いながらベッドにもう一人分の間を作る綾部を見て、
フォリーは一瞬動きを止める。

「・・・・・ わかった」

そしてドアに背中を向けると、綾部の作ったスペースにゆっくりと横になり、
自分も布団をかぶった。


フォリーが綾部の背中に腕をまわしてやると、
遠慮がちに綾部も体を寄せる。

綾部がフォリーの体に顔をぎゅうっと押し付けると、
フォリーは背中にまわしていた手で頭を撫でる。

体の中心にある何かがじわじわと温まり、満たされていくような感覚を、
二人は受けていた。

「・・・綾部、」

綾部の頭から背中を撫でながら、フォリーは言った。

「もし何か辛いことがあったり、どうしても眠れなかったりするときは、
 私や渚紗に遠慮なく「助けて」と、言うんだ」

綾部は目を僅かに見開いて、フォリーの顔を見る。

「もしかして・・・知ってたの?」

「お前が眠っていないことをか? ああ、なんとなくは解っていた。
 疲れているようだったからな」

「あ・・・ うっ・・・・ えっぅ・・・・・・」

綾部は、そっと目を閉じて、フォリーの体に強くしがみついた。
その目からは、大粒の涙が溢れ始めていた。

「・・・フォリー・・・・助けて・・・っ・・・・!!」


綾部は、昼の夢の続きを見た。

支えを失った体は、再び世界の奥の暗闇へと向かっていた。

暗闇の中に見えるのは、

嫌悪や侮蔑を剥き出しにした視線、
悪意を骨まで刻み込もうとにじり寄る刃、
そして少年を連れ戻そうと伸ばされる手、手、手・・・・


いやだっ!

誰かっ!!


――助けてっ!!!


そう叫んだ瞬間、誰かが、少年の体を強く抱き寄せた。
見上げると、群青色の長髪をなびかせ、少年を力強く見つめる人影があった。
その腕は、強く、暖かく、優しかった。

少年は、人影とともに、暗闇から遠ざかっていった。
目も刃も手も、霞んで見えなくなるまで。

フォリーは、綾部がすうすうと穏やかな寝息をたてるのを見届けてから、
自分も眠りについた。


フォリーが目を覚ましたのは、正午になる直前だった。
カーテンの開かれた窓から光がたっぷりと差し込み、
開いたばかりの目を細めさせる。

「・・・・おはよう」

「あっ おはよう、フォリー!」

綾部は既に起きていて、渚紗と何やら話しているらしかった。

「おそよう、フォリー。 珍しいね」

「ああ、まあな・・・ 綾部、よく眠れたか?」

「うん、ありがとう」

そう言った後に視線をほんの少し下へずらし、
誰にも聞こえないくらい小さな声で付け足す。

「・・・お父さん」

「ん? 何か言ったか?」

そして直ぐに視線を戻し、照れくさそうにえへへと笑う。

「ううん、なんでもないよっ」

綾部の笑顔を見ながら、フォリーは「全然わからない」という表情を作る。
その様子を横から見ていた渚紗は、いかにも楽しそうに笑って言った。

「さっ、 もうすぐお昼の時間だよ!」

 

おしまい

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